昭和44年09月27日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 今日は68節の、小さい音でも神には聞こえるというところ、小さい音でも神には聞こえると、そこんところを焦点において一つ、お話を進めていきたいと思います。私は思いますのに、信心生活と、とか信心をさせていただいておる有り難さと、信心を持っておる者の、有り難さというのは、尊い生き方有り難い、有り難いそれには尊いというものが、有り難い尊い生き方、ができる事だと思うんです。
 それはどういう事かと言うと、恐れ入った生活だと思います。恐れ入りますと言うでしょう。心生活に私はこの、尊い生き方させてもらい、有り難い生き方の中からです、ね。おかげを受けていく、そこにはね本当に神様のお働きには恐れ入ってしまうという体験の伴うた、日、日々でなからねばならないということ。それにはねどうしてもこの小さい音でも神には聞こえると、これは神には聞こえるという。
 まあね、どういう事かと言うと、まあ、いうならば、天地に響き渡るということです。小さい音でも、人間の真というものは、それは小さい音であって、音ということは些細な事柄であってもということ。または自分の心のそれこそ些細な心の動き一つでもということ。自分の心の動き、それがどんなに些細なことであっても、神には聞こえると仰る。ということは天地に響き渡るということですね。
 合楽で御信心の稽古をさせて頂いておる方達がよく申します。本当に神様のお働きには恐れ入ってしまいますと。又は神様のお働きの一分一厘間違いのないのに驚き入ります、恐れ入りますとこう言う私はそういう日々がですね、恐れ入った信心生活が出来るおかげの元だと私今日ご神前で、今日の御理解がどう言う様な事を頂くのであろうかと思うたらね、今あんまり作りませんけれども。
 あの不断草という野菜がありますよね。不断草その不断草をね、裏から見るところを頂くんですね不断草の裏。ですから私はもうすぐに直感しました事はですね、不断と言うのは常日頃という事だと思うんですね。裏というのはです私共のいうなら心の奥とでも言おうか、心の裏とでも言おうかまたは形に表しておる、言葉一つでも形に表して言葉しておるその裏の心だとこう思う。
 そういう事を頂いてこの今日こ教典を開かせて頂きましたら、68節を頂いてしかもこの68節のね、この小さい音でも神には聞こえるという所を頂くんです。ここだけははぁ私共がですね日々生活をさせて頂いておる、そのう形の上に現れて来るその元である所の心、その裏の裏と言った様な感じ、所謂心の動きということね。私共の些細な心の動き一つでも神様は見ておいでであり聞いておいでであるという事なんです。
 私あの昔でしたけれど、今日御神前で不断草を、御心眼に頂いて昔何か雑誌で読ませて頂いた中にですね、ある嫁さんがその家に嫁って行って、小さい少しばかりの畑を綺麗にあの耕してもう必ず、もう必ずその不断草を作ったという嫁さんがおった。そこのお婆さんは歯がない。ですから不断草のおひたしだったら、それがとても柔らかでね、とにかくおいしいおいしいと言うて頂かれたんで、もう必ず不断草だけは。
 その少しばかりの畑に不断草を作った。と言う様な姑親と嫁さんとの折り合いがね、いくというのは、そういう小さい嫁の心、使いというものが姑親に通じないはずはないんだというようなことを書いた、不断草という、その何かそんな物を読んだ事があります。私は今日それを思いました。ね、例えば女の方が、炊事場でいろいろと御用をなさいます。それこそ、芋の皮の剥き方一つの上においてもです。ね、
 お爺ちゃんが歯が悪いから、柔かい物をと例えば心に思いまた念じる心。御飯を一つ炊かして頂くでも、ね、若い者は硬い御飯が良いと言う、年寄りは柔い御飯が良いと言う。そこでそれを調理させて貰う、それを作らせて貰う、例えばお母さんの心の中にです、どうぞ神様年寄りにも合います様に、又若い者にも美味しゅう頂けます様にと言った様な祈りを込めてのそれ。もう小さいその心の使い方一つの上にもね。
 そのような物。ただ忙しい忙しいと、ただ、どんなに立派なお御馳走を作ってもです、それでは本当の事にならんのじゃないだろうかと。私は是は婦人だけの事じゃありません。誰も男でも女でも、ね、もうそれこそ老いも若きもですね、信心させて頂く者がね、もう本当にそれは些細な些細な事。ちょっとした事柄でもちょっと年寄りに出来る事、是ちょっとこうお母さんが楽だからお母さんが楽になるから、孫達が喜ぶから、例えばそれは形に表れる程しの事ではなくてもです。
 年寄りにそういう心遣いがあれば、嫁さんに通わないはずはない。ええですか小さい音でも神には聞こえると仰せられるのですから。これは必ず拍手という意味じゃな、だけじゃない。ね、口にどんなに優しゅう言うておっても、心にその優しい心があって、その形に現れるものでなからなければならない。ね。してみると自分の小さい心の動きだけでも、それを本当に見極めようとする私は姿勢というかね、自分という者を見極めようと、私は何も悪い事はしませんこげん親には努めております。
 成程しっかり努めよんなさる所が具合良ういかん。それは只形だけで努めよんなさるというより他はないです。所謂本当のお勤めですその裏にです優しい事親切な事ね。人が喜ばれるであろう人が気持ち良うあられるだろうと、と言う様なまあ普通信心を抜きにして良く申します言葉の中に小さな善意と言った様な事を申しますね。そのどんなに些細であっても小さくてもそのその善意がですね私は真心だとこう思う真だと思う。
 してそういうね、些細な事にでもそういう心を使えるという事が実は私自身が有り難いのですよ。ね、いわゆる吾とわが心が拝みたいという時にはそういう心がいつもいつも、正面にでてきておることです。小さい神経、行き届いてござると、これはなかなかね、その性格ですから、間に合わしょうとしてできる事じゃあありませんですね。行き届いておるとか、ぼんやりしておるとかというのは、その性格ですから。ね、しかしその人の心の中にですね、動いておる心というものは、こりゃ、同じです。
 自分の心の動き一つにでも自分が今思っておる事が、ね、神様がお喜び下さる事であろうかという風にこう確かめてみると、本当に自分ながらげっそりする様なガッカリする様な事を、に心が動いて居る様な事が御座います。ですからそう言う様な心でもだから神様は見逃しなさらないし、神様に聞こえておる訳です。ですからいかにです、ね、私は信心とはもう限りなく美しゅうなる事だと、いうのもそこにある訳です。
 美しくなる為に本気で自分というものを分からせて貰うて、改まっていこうとする精進。事あるごとにそれを愈々その事柄をです。俗に申しますその事を砥石にして磨いていくという事。そこに信心という化粧をするから愈々美しゅうなっていく、自分の心が美しゅうなって来る。自分の心の中に汚い心が起こって来る。はあ自分にはまだこういう汚い心がある。だからそれを取り払おう取り払おうと思うただじゃあいかん。
 矢張りそういう改まる事に、磨く事に精進させて頂いておるとです、いつの間にかそれが取れておる。そういう心に尚又磨きを、化粧する様に限りなく美しゅうなる事に努めるのですから、是が美しゅうならん筈がない。そこから生まれて来る心なんだ。ね。昨日秋永先生と話した事でした。昨日秋月の教会で、信心共励会が御座いましたから、秋永先生行って夕方帰ってみえられてまあ夕方から。
 そのあちらの共励会での模様を聞かせて頂いておりましたから、もう夕食の時間夕食のでも一緒に、もうとにかく限りがない信心話を二人で一緒、本当に信心話っていやあ、もう限りがない。中でも色々お話の中にですもうとにかくですね、合楽でのお話っていうのは本当にあの、本当じゃなかごたるいわゆる真実性を欠く程しの、おかげですけんだから本当皆が分からん筈ですもんね、と言うて話した事です。
 いわゆる一分一厘の間違いのない神様の働きをです、こういうおかげを合楽では受けておると言うてもです、ほんなこっちゃあるじゃろうかというような感じなんです。実際見ておったり聞いておったり、しよらなければ分からんのです。その中に先生、昨日はですね、こういう事があったですよ、と言ってから話した事でしたけれども、北海道からあの毛蟹のお供えを頂いた。カニですねもう夜の12時半頃でしたでしょうか、持って来られる遅く。もう休もうかと言いよる時分です。
 そしたらその朝です、今度は沖縄からというてお供えを頂いた。所謂日本のですねいうならば北と南の端からね、あのお供えが届いておる。パイナップルの干した物とあちら製の財布ですか、をお供えに頂いております。期せずして例えばその一晩の内にですね、南はあぁ沖縄から、北は北海道から合楽に集まって来ておる。ね、それはね物はそれはパイナップルの干し物かもしれません。物はただ毛ガニ一匹かもしれません。
 こん中に大きな箱に包装して、なんじゃろうかと思うて開けたら、中に大きな毛ガニが入っておる。そこへんにですもう本当にその、天地の働きというかもうそれがいつもあるのじゃないですねたまたま。北と南からそのここに集まって、ただそれはそれだけだけれども、それほどしの働きがね、ここにはいつもあっておるという事。それをまあこれは余談ですけれども、食べ方が分からんもんですからね。
 大体もう湯がいてあるようですけど家内がそれをまた湯がいておる。でそのこう開けて、切ったところが、中にはこんな大きな中に水がいっぱい、た、入ってるんですね。その水が美味しいんだそうですよ。所がその流しでそれを切っておったもんですから、中の水が全部出てしまっておるわけですね。したら是は腐っとっとじゃなかじゃろうかっち言うて。あくる日ですお供えした人がみえてから、あのうあのうカニはあのう召し上がっていただいたでしょうか。頂きましたたいへん美味しかった。
 そうですか何かこう体に異常はなかったでしょうかっち言う。何か発疹の事を言う。そのカニを買って来た人がね、それを向こうから言われる通りにしてから、中の水が美味しいんだと言うので水を頂いたんです。所がそのいわゆる、何か(?)ようなものがいっぱい出来てね、顔を真っ赤にしてからみえとった。私共はおかげを頂いてから、その家内が間違えて、その腐っとるとじゃなかじゃろうかと思う。
 割ったとたんに中にこぼれてしまったもんじゃから、もうほんな足だけを頂いたと(笑)。足でもいっぱい実が入ってる、ですからそれを他の野菜と和えて一緒に頂いた。そん中にもですね、本当に神様の間違いなさを感じます。私共日々の中にですね、もう本当に一分一厘間違いのない働きの中にね、おかげを頂いているという事。それも信徒会で、(広野さんの?)お話が昼からあったそうです。
 その(?)さんのお話の中に、それこそ開口一番合楽の人達はね、こういう信心をしておると合楽を見習えと言う様な事をね。先日の共励会で合楽の信者さんが話しておるのを聞かせて頂いたが、親先生のお供をして福岡にやらせて頂いたら、ね。ずうっとその時間きっちり急いで、いきよるその中にですね、もう赤信号がなくて青信号ばっかりであった。神様のご守護神様のお守りを受けておる事を実感しながら、福岡につかせて頂いたという話を聞かせてもろうたが。
 合楽の人達はそういう信心、そういう中にも細かい神経を使って、神様をひしひしと自分のこれに感じておる、そういう信心をしておる。自分も今日は二人前の仕事をしてきた。普通であったらできないことをです、もう時間ぎりぎりいっぱい、家ではもうとても間に合いなさらんとこう、時間には間に合いなさらん、もう時間はたいへん厳守されますからですからね、一分間でも遅れられない。
 だからもうお父さん今日は、遅うなりますよと、まあ言われたけれども、いいやおかげ頂くと言うてやってまいりましたら、もうそれこそ青の信号でもうそれこそ、矢を射るように、ここの教会に着かせて頂いた。という合楽のその事を言いたいために、まあ合楽の事を仰ったんでしょうけれどもです、そういう中に神様の一分一厘間違いのない働きを感じながらの信心、そこに私は恐れ入った生活が出来ると思う。
 もう神様の御働きにおそれいってしまいます。一分一厘の間違いのない働きの中にこうやってお守りを受けておる。そういう間違いのない働きの中にこのような事が起こって来るんですから、例えばね、いうなら難儀なら難儀と思う事、痛い痒い事にいたるまで、そういう間違いのない働きの中に、そういう間違いのない御取次の働きの中に起きて来る事であるから神様のご都合に違いはないと頂けるね。
 私は道の信心させて頂く者はね、そういう例えば日々が恐れ入ってしまうと、本当に恐れ入った生活ができることだと。それにはです、私共がそれこそ、小さい音でも神には聞こえるとこう仰る。例えば小さい心の動き一つでも神は見ておるという事にもなる。しておる事はほんの些細な事。例えば私がここに申します、例えばお便所ならお便所の下駄一つを、ささこう揃える。
 誰もそれを誉めてくれる者もなからなければ見ておる者もないのだけれども、そうしなければおられない心、ね、そういう些細な心の、動きというかね、小さい例えばその善意がですね、私は些細な事の上にでも神様の働きの間違いなさというものを実感させて頂けれるおかげに繋がるんだと思うのです。そこでここに、信心のある者とない者の違いというところをそういう意味において世の中には本当に、あの人は仏様じゃろうか神様じゃろうかというような人があります。行き届いた人があります。
 本当にじょうもんの権化のような人があります。ところがねそれだけではね、んならけっして一分一厘の間違いのない働きの中にそれを実感する事の出来ない、いわゆる恐れ入った生活はそれだけではできませんもん。んなら、信心しておってもそうです。ね、そういう例えばどうでも、どうでも必要な物は68節の一番初めの所であります。神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。
 その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ。このいつも身に徳を受ける修行という物がです、なされておってその小さい善意である。心の動きである普段の心のいわば裏側にあるようなものなんだ。そのそれがです神に聞こえると同時に日頃ここん所が出来ていないと、それはあの人は仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃというても、難儀な事が起こってくるという事が世間ではあろうがと仰るような事にもなって来る訳です。
 それだけではです決して恐れ入った生活はできません。ね、打てば響くようにです、神様が本当に恐れ入ってしまうと言う様な働きを、私の心の中にも身の上にも、自分の周辺にも、ね、お働きをはっきり感じれる様なおかげというのは人徳を受ける修行じゃという事がなされなければできないのです。神参りをするにという事は勿論お参りをしてくるという事ではありません。
 神参りをするにという事は、信心をさせて頂く者はという事にもなります。心を神様にいつも向けておる、信心をする者はです、それは雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。例えば日常生活の上に、これが雨であろうか風であろうかと思う様な事にあっても、さあそこん所を修行だと頂かせて頂く様な辛抱。皆さんも体験される事であろうと思うんですけれども、例えば昨日、まあ土居の共励会で御座いました。
 秋永先生なんかは朝から、朝の御祈念頂いて御用なさって、そして秋月行ってあられる。まあ殆どの人がそうです。夕べはそんな訳で秋永先生も土居の方に行かれたから、何時もより遅かった。とにかくもう12時過ぎたでしょう休ませて頂くのが。で久富さんあたりもみんなその遅うから皆んな帰っておられる。帰っておられるけれども、今朝は目覚ましをやっぱぴシャット頂いておられるでしょうが。
 恐らくは休まれる時に今日はもう休む時間が2時間しかありません、3時間しかありませんけれども、どうぞ明日の朝の御祈念には間に合いますように。それこそいつもよりも返って有難い目覚ましのおかげを頂いておられるに違いないと思うです。もう絶対頂けるです、そういうおかげ。もう昨日は何時間しか寝とらんけんで、もう明日は遅うなったっちゃよか、朝の御祈念には参らんでん神様が知ってござると言った様な考え方の中には、そういう働きは起きてこんです。
 小さい心、朝の御祈念にはどうでもお参りさせて頂きたい。さあ今から休めばもう3時間しか休めません、2時間しか休めませんけれども、どうぞ有り難い目覚ましのおかげを頂かせて下さいと言う様な祈りがね、床の上までいわばなされておる。だから皆さんやっぱり夕べ遅かった人達もやっきっと、朝の御祈念にお参りが出来ているです。そういうね時に、神様は間違いないなあというものを感じますよ。
 そこんところがですね辛抱です。ね、ただここんところの辛抱ができなくしてです、ね、それがまた身に徳を受ける修行でもあるのです。ですからその辛抱ができずしておいてです、ね、例えばどんなに、小さく自分の心を善意に善意に使っても、それは通じません。人には通じるかも知れんけれども、神様には通じません。ね、天地には響き渡りません。私はお道の信心をさせて頂くなら折角させて頂くなら。
 日々が有り難い勿体無いということは勿論ですけれど、ね。それ同時に本当にもう恐れ入ってしまうなあという、生活を目指さなければいけないと思う。それにはやはり普段の自分の心の使い方。いつも心ではあの人の事をに憎んでおる。いつも心ではあれがとこう思うておる。足元ばっかり見よる。そういう心の動きが神様に通ういや必ず通う通うけれど、ね、それは反対の意味合いにおいて。
 ですからいつも自分が難儀をしなければならん。いつも自分が苦しい。ね、誰も見よらんから分からん。けれども自分のその心というものがです、ね。いつもその善意でいっぱいである。親切でいっぱいである真心でいっぱいである。誰も見よらんけれどもそういう心で心遣いというものが出来ていく。ね。そういう心を使わせて頂く為にだから本気でお互い限りなく美しゅうなりましょうと。
 いう事になってくる訳なんです。限りなく美しゅうなる精進しなけりゃいけん。同時に精進というのは只今申しますように、神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。どういう例えば、本当に雨であろう風であろうかと思うような部分、問題にぶつかっても、それが身に徳を受ける修行じゃと思うて有り難ういかにゃあいけん。ね、
 そういう辛抱ができて、今日私が申します、小さい音でも神には聞こえるというところをです、分からせて頂いたら、もう信心がいよいよ有り難いもの、いうなら楽しいもの。ね、そして、一日を締めくくった時に一日の事を思うて、本当に神様のお働きには恐れ入ってしまうということになってくる。恐れ入った生活、ね、それが私はお道でいう本当の信心生活だ、そういうことだと思う。
   どうぞ。